「もう、やめようよ」
美鶴の左手を捉えたまま、右肩に手を乗せる瑠駆真。美鶴の身体がグラリと揺れた。
「こんな生活、何になる?」
「何って、別に」
言い返そうにも言葉が出ない。
なんて寂れた毎日。
わかっている。自分の日常がどんなにくだらない毎日か、そんな事はわかっている。
いいんだ。どうせ私の人生なんて、そんなモノなんだ。どうせ嗤われて、虚仮にされて、バカにされるしかない人生なんだ。
そう思いながらも、唐渓の同級生たちに嗤われ事を何より恥だと感じていた。どこかで諦めきれないでもいた。だから通帳を持って岐阜へ行った。
「っ!」
右手で額を押さえる。そんな美鶴に、瑠駆真はそっと顔を寄せる。
「もういいんだ」
再び見上げるのと同時、瑠駆真は肩に置いていた左手を美鶴の背中へ回した。そのまま引き寄せる。美鶴の左手を捉えていた手も背中へまわす。そのまま、美鶴の顔を胸に寄せ、全身で美鶴を包んだ。
「もういいんだよ」
暖かくて、大きな身体だと思った。瑠駆真に抱き寄せられた事は前にもあったが、これほど暖かいとは思わなかった。
暖かい。
美鶴はなぜだか涙が出そうになった。
瑠駆真は、右手を美鶴の後頭部へ当てる。そのまま髪の毛をゆっくりと撫でる。
「唐渓なんて、辞めてしまおう。ここから出て行って、もっと別のところへ行くんだ」
美鶴となら、どこへでも行ける。
脳裏で中東人と黒人が手招きをしている。
来いと言うのなら行ってやろう。美鶴と一緒なら、僕は負けない。
僕は変われる。
瑠駆真は両腕に力を込めた。
「好きだよ、美鶴」
優しい。
初めて思った。
初めてそう思った。瑠駆真の言葉を、初めて優しいと思った。
抱きしめられる事が、これほど暖かく優しく、居心地の良いものだとは思わなかった。
もう、辞めてしまっても良いのだろうか?
眠いような不思議な感覚の中で、美鶴は瑠駆真の胸に顔を押し付けた。全身の力が抜けて、このまま瑠駆真に寄りかかっていたいと思う。
ラテフィルなどと言う、名前しか知らぬ異国の地に、自分のための生活が待っているのだろうか?
髪の毛が揺れて香りが鼻をくすぐる。雨に濡れてシャワーを浴びた髪が香りを漂わせる。
もう、辞めてしまおうか?
甘い香りが美鶴を包む。もう、胸の気味悪さはない。
甘くて、爽やかで、優しくて、暖かい。
美鶴は、瞳を閉じた。
良い香りだ。
その香りに身を委ねようとしていた美鶴の耳に、突然響く声。
―――― 良い香りですね。
「っ!」
とても静かな声だ。だが美鶴には、まるで大きな鐘がグワンと頭の中で鳴り響いたかのように思えた。
美鶴の身体が強張るのを、瑠駆真も気付いた。
「美鶴?」
そっと掠れるように耳元で囁く。それに答えるかのように、美鶴はゆっくりと瑠駆真の胸を押した。
唐渓を辞めてここを去るという事は、駅舎の管理も返上して、霞流さんとも会えなくなるということだろうか?
それは嫌だ。
「できない」
短いがはっきりとした美鶴の言葉に、瑠駆真は腕の力を緩める。
「できない?」
覗き込んでくる瑠駆真の顔を避けるように、瑠駆真の腕から逃れるように、美鶴は身体を引いた。
「それはできない」
「できない?」
「ラテフィルなんて所には行けない。唐渓を辞める事は、できない」
「できない? どうして?」
「それは」
「今さら、どうして唐渓に固執する?」
「それは」
唐渓に固執しているわけではない。ただ―――
「せっかく入学したのに、途中で逃げ出すような真似はしたくないだけだ」
言えない。霞流と離れるのが嫌だなどとは、瑠駆真には言えない。
別に霞流慎二と親しい付き合いをしているわけではない。電話一本入れるのにも遠慮してしまうほどの関係だ。駅舎の管理で薄く繋がっているだけで、高校を卒業して駅舎の鍵を返してしまえば、その先の保証は何もない。
そうなのだけれど。
「それに、特に辞める理由もない」
「こちらに理由なんかなくたって、どのみち辞めさせられるさ」
廿楽華恩がどのような行動に出るのか想像はつかない。だが、結果は見えている。
「こんな事態になったのはお前のせいだ。私には関係ない」
「確かに原因は僕にもあるが、今までの君の態度にだって問題はあるんだ。誰も君や僕を擁護してくれる存在なんていない」
入学してからの今までの自分の態度を出されると、美鶴としても反論に窮する。学校を追い出されるような環境を整えてしまったのは、美鶴自身の日頃の行いそのものだから。
痛いところを突かれ、それでも美鶴は瑠駆真を見返す。
「そうだとしても、私は辞めるつもりなんかない。まして、ラテフィルなんてところへ行くつもりもない。だいたい、なんで私がそこへ行かなくちゃならないんだ。そこへ行って何がある?」
「何でも」
「何でも?」
訝しげに眉を潜める美鶴へ、瑠駆真は瞳を大きくする。
「何でも。僕たちの望むものなら、何でも手に入れる事ができる。何でも望みを叶える事ができる」
自分たちを拒絶し、嘲り嗤う者など、どこにもいない。
「ラテフィルで、幸せになれる。もう何かに苦しむ事もない」
自信を込めて断言する瑠駆真に、美鶴は生唾を飲み込んだ。
「ラテフィルって、何?」
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