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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [14]




「もう、やめようよ」
 美鶴の左手を捉えたまま、右肩に手を乗せる瑠駆真。美鶴の身体がグラリと揺れた。
「こんな生活、何になる?」
「何って、別に」
 言い返そうにも言葉が出ない。
 なんて寂れた毎日。
 わかっている。自分の日常がどんなにくだらない毎日か、そんな事はわかっている。
 いいんだ。どうせ私の人生なんて、そんなモノなんだ。どうせ嗤われて、虚仮(こけ)にされて、バカにされるしかない人生なんだ。
 そう思いながらも、唐渓の同級生たちに嗤われ事を何より恥だと感じていた。どこかで諦めきれないでもいた。だから通帳を持って岐阜へ行った。
「っ!」
 右手で額を押さえる。そんな美鶴に、瑠駆真はそっと顔を寄せる。
「もういいんだ」
 再び見上げるのと同時、瑠駆真は肩に置いていた左手を美鶴の背中へ回した。そのまま引き寄せる。美鶴の左手を捉えていた手も背中へまわす。そのまま、美鶴の顔を胸に寄せ、全身で美鶴を包んだ。
「もういいんだよ」
 暖かくて、大きな身体だと思った。瑠駆真に抱き寄せられた事は前にもあったが、これほど暖かいとは思わなかった。
 暖かい。
 美鶴はなぜだか涙が出そうになった。
 瑠駆真は、右手を美鶴の後頭部へ当てる。そのまま髪の毛をゆっくりと撫でる。
「唐渓なんて、辞めてしまおう。ここから出て行って、もっと別のところへ行くんだ」
 美鶴となら、どこへでも行ける。
 脳裏で中東人と黒人が手招きをしている。
 来いと言うのなら行ってやろう。美鶴と一緒なら、僕は負けない。
 僕は変われる。
 瑠駆真は両腕に力を込めた。
「好きだよ、美鶴」
 優しい。
 初めて思った。
 初めてそう思った。瑠駆真の言葉を、初めて優しいと思った。
 抱きしめられる事が、これほど暖かく優しく、居心地の良いものだとは思わなかった。
 もう、辞めてしまっても良いのだろうか?
 眠いような不思議な感覚の中で、美鶴は瑠駆真の胸に顔を押し付けた。全身の力が抜けて、このまま瑠駆真に寄りかかっていたいと思う。
 ラテフィルなどと言う、名前しか知らぬ異国の地に、自分のための生活が待っているのだろうか?
 髪の毛が揺れて香りが鼻をくすぐる。雨に濡れてシャワーを浴びた髪が香りを漂わせる。
 もう、辞めてしまおうか?
 甘い香りが美鶴を包む。もう、胸の気味悪さはない。
 甘くて、爽やかで、優しくて、暖かい。
 美鶴は、瞳を閉じた。
 良い香りだ。
 その香りに身を委ねようとしていた美鶴の耳に、突然響く声。

 ―――― 良い香りですね。

「っ!」
 とても静かな声だ。だが美鶴には、まるで大きな鐘がグワンと頭の中で鳴り響いたかのように思えた。
 美鶴の身体が強張るのを、瑠駆真も気付いた。
「美鶴?」
 そっと掠れるように耳元で囁く。それに答えるかのように、美鶴はゆっくりと瑠駆真の胸を押した。
 唐渓を辞めてここを去るという事は、駅舎の管理も返上して、霞流さんとも会えなくなるということだろうか?
 それは嫌だ。
「できない」
 短いがはっきりとした美鶴の言葉に、瑠駆真は腕の力を緩める。
「できない?」
 覗き込んでくる瑠駆真の顔を避けるように、瑠駆真の腕から逃れるように、美鶴は身体を引いた。
「それはできない」
「できない?」
「ラテフィルなんて所には行けない。唐渓を辞める事は、できない」
「できない? どうして?」
「それは」
「今さら、どうして唐渓に固執する?」
「それは」
 唐渓に固執しているわけではない。ただ―――
「せっかく入学したのに、途中で逃げ出すような真似はしたくないだけだ」
 言えない。霞流と離れるのが嫌だなどとは、瑠駆真には言えない。
 別に霞流慎二と親しい付き合いをしているわけではない。電話一本入れるのにも遠慮してしまうほどの関係だ。駅舎の管理で薄く繋がっているだけで、高校を卒業して駅舎の鍵を返してしまえば、その先の保証は何もない。
 そうなのだけれど。
「それに、特に辞める理由もない」
「こちらに理由なんかなくたって、どのみち辞めさせられるさ」
 廿楽華恩がどのような行動に出るのか想像はつかない。だが、結果は見えている。
「こんな事態になったのはお前のせいだ。私には関係ない」
「確かに原因は僕にもあるが、今までの君の態度にだって問題はあるんだ。誰も君や僕を擁護してくれる存在なんていない」
 入学してからの今までの自分の態度を出されると、美鶴としても反論に窮する。学校を追い出されるような環境を整えてしまったのは、美鶴自身の日頃の行いそのものだから。
 痛いところを突かれ、それでも美鶴は瑠駆真を見返す。
「そうだとしても、私は辞めるつもりなんかない。まして、ラテフィルなんてところへ行くつもりもない。だいたい、なんで私がそこへ行かなくちゃならないんだ。そこへ行って何がある?」
「何でも」
「何でも?」
 (いぶか)しげに眉を潜める美鶴へ、瑠駆真は瞳を大きくする。
「何でも。僕たちの望むものなら、何でも手に入れる事ができる。何でも望みを叶える事ができる」
 自分たちを拒絶し、嘲り嗤う者など、どこにもいない。
「ラテフィルで、幸せになれる。もう何かに苦しむ事もない」
 自信を込めて断言する瑠駆真に、美鶴は生唾を飲み込んだ。
「ラテフィルって、何?」







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